2025年11月1日土曜日
締め切り効果
11月です。今年もあと2か月です。”今年中にやらなければ”ということがある人にとっては、そろそろプレッシャーを感じる時期かもしれません。
ところが、このプレッシャーが集中力を高め思わぬ作業効率や生産性を高めることがあると言います。これを”締め切り効果”と言うのだそうです。
▼そんな”締め切り効果”を彷彿とさせるような一篇のエッセイに出会いました。ダウン症の書家・金澤翔子さんと母・金澤泰子さんの作品集「翔子の百物語」の中の一篇です。
翔子さんの書いた力強い書作品と、それにまつわる泰子さんの愛情あふれる解説エピソードが見開きで収録されているうちの「百回」と題する以下の一篇です。
▼「連載が百回を迎えた。百回も続いたのは〆切があったから。もし〆切がなかったら一篇も書けなかったでしょう。
毎月〆切に追い詰められて目を瞑り想うと、翔子のエピソードが降りてきて、それを書き留めた。百篇のどのエピソードもこの連載がなければその場で消え去ったろう。
皆さまも深い想いに出会ったら小さなノートを作り〆切を決めて毎月一篇書いてみて下さい。私もこうして娘の百物語ができました。」
▼この「翔子の百物語」は、ダウン症の娘と命の尊さを感じながら共に生きてきた金澤泰子さんが10年間続けてきた雑誌の連載をもとに厳選しまとめて今年2月に上梓されたものです。
いずれの物語も、〆切に追われる心理的なプレッシャーの中でそれを不思議な力に変え瞑目して紡いだと思える至高のエピソードです。
▼教訓とすべきは、件の一篇「百回」の後段にある「皆さまも・・・書いてみて下さい。」という一文です。『”締め切り効果”追求のススメ』とでも言える一文です。
練習スピーチの話材選びなどで腐心する「話し方教室」の受講生にとっても、会心の”締め切り効果”を引き出す一法として倣うべき有用な教示のような一文に思います。
2025年10月1日水曜日
「ばけばけ」と「ヘルン文庫」
10月1日です。一昨日からNHKの連続テレビ小説(朝ドラ)「ばけばけ」が始まりました。
舞台は明治時代の島根県松江市です。主人公の没落士族の娘・松野トキ(モデルは小泉セツ)が、外国人の夫(モデルは小泉八雲=ラフカディオ・ハーン)とともに
急速な西洋化の中で健気に暮らす姿を描く物語です。
▼「ばけばけ」は「化ける」の意味で、変わりゆく時代に取り残された人々の思いが素晴らしいものへと化けて行くというのがテーマだそうです。
没落した士族の苦労や互いに支え合う家族の姿を通して「この世はうらめしい。けど、素晴らしい。」が作品のキーワードだといいます。
▼ところで、小泉八雲が生前収集した蔵書群コレクションが富山大学附属図書館に所蔵・管理されています。「ヘルン文庫」です。
2435冊の図書のほか、八雲の手書きの原稿や関連文献などが含まれているということです。
「ヘルン文庫」の膨大な蔵書群は、八雲が日本に来てから集めたもので文学的創作の資料として重要なものとされています。
▼そもそも、小泉八雲の蔵書コレクションがなぜ富山大学にあるのか?
いきさつはこうです。大正12年の関東大震災で多くの資料を焼失した八雲の遺族が難を逃れた蔵書の安全な保管先を探していました。
折しも旧制富山高等学校(現・富山大学の前身)の設立準備を進めていた関係者が富山を文化の拠点にしたいと考えて譲渡を申し入れます。
その趣旨に賛同し寄付依頼に応じた資産家の馬場はる氏が私財を投じ購入して学校に寄贈。富山大学に現在引き継がれているという訳です。
▼「ヘルン文庫」は、定期的に公開されています。毎月第3水曜日の13時から16時に自由に見学可能です。10月の公開日は15日水曜日です。
朝ドラ「ばけばけ」の放送を機に、日本の文化や伝説を欧米に紹介した小泉八雲の著作(怪談など)に影響を与えた「ヘルン文庫」の蔵書や資料に触れ、
八雲の文筆活動の背景を弄ってみるのも一興かもしれません。
2025年9月1日月曜日
「茶道」は「さどう」?「ちゃどう」?
9月です。先月14日、茶道裏千家前家元の千玄室さんが亡くなりました。
千利休の流れを汲み、茶の湯の文化を世界に広めた大宗匠の逝去でした。
この訃報を伝えた放送のニュースで、「茶道」を「ちゃどう」と読んだアナウンサーの読み方が物議を醸したようです。
▼とりわけ、SNS上では「NHKのアナウンサーなのに、茶道も読めないのか」など、非難と抗議の声があったと言います。
しかし、NHKでは「さどう」「ちゃどう」両方とも認めており、放送では流派や文脈に応じて使い分けているようです。
一般的な情報では「さどう」を、流派の話題ではその流派の読み方に合わせているということです。
▼確かに、「茶道」の読み方は流派によって違うようです。
表千家では、特に決まりはないが、「さどう」と読むことが多い。裏千家では、伝統的に「ちゃどう」と読むのが正式。
武者小路千家では、どちらも使うが、原則「茶の湯」と呼ぶことが多い。ということのようです。
従って、件のニュースでは「ちゃどう」と読むのが正解だったということになります。
▼今では「茶道」は「さどう」が一般的ですが、歴史的には「ちゃどう」が本来で、江戸時代までは「さどう」は稀だったと言います。
そもそも、茶道関係の言葉、茶釜、茶器、茶道具、茶の湯、茶会などは、すべて「ちゃ」です。
してみると、「茶道」を「さどう」と読むのは極めて例外的なのかもしれません。
▼ところで、漢字には一般的に知られている読み方と異なり、本来の正しい読み方がある例がいくつかあります。
「一入」は「いちにゅう」や「いちいり」と間違って読まれることがありますが、本来の読み方は「ひとしお」です。
「幕間」は、現代では慣用的に「まくま」という読み方が広まっていますが、正しくは「まくあい」。
代替は、「だいたい」と読みますが、「だいがえ」は間違い。他人事は、本来「ひとごと」で「たにんごと」は間違い。などなどです。
▼「日本語は難しい」とよく言われます。とりわけ、漢字は厄介です。
最初から読めない難しい漢字は辞書で調べますが、知っている漢字の熟語は要注意です。
「思いこみで読む前に、念のため調べてみるべし」を心掛けたいものです。
2025年8月1日金曜日
夏日、真夏日、猛暑日、酷暑日、そして、・・・。
8月です。暑い日々が続いています。毎朝の天気予報は、炎天下での外出を控えるよう呼びかけています。
夕方のテレビニュースは、全国の暑さランキングを連日のように報じています。
折しも、一昨日(7月30日)、兵庫県丹波市で最高気温41.2度を観測し、5年ぶりに国内最高を更新しました。
昔はこんなに暑くなかったよなぁ、と感慨一入です。
▼ところで、いつ頃から夏の暑さを固有の気象用語で表わすようになったのでしょうか。
因みに、最高気温が25度以上になった時の「夏日」は、1897年(明治30年)頃から使われ始めたようです。
当時の観測指標として「夏日(25℃以上)」が気象資料に登場すると言います。夏の実感は気温25度からだったのでしょう。
▼一方、今では毎日のように耳にする「真夏日(最高気温30度以上)」は、1962年(昭和37年)の日本気候表に正式に登場するそうです。
中高生の頃、気温が30度を超えると大騒ぎだったのを思い出します。1967年(昭和42年)頃から「真夏日」が広く使われたという記述もあり、
1960年代(昭和35年代)から1970年代(昭和45年代)にかけて定着したようです。
▼また、言い得て妙な猛烈に暑い日「猛暑日(最高気温35度以上)」は、2007年(平成19年)に気象庁の予報用語に正式に追加されました。
18年前のことです。以来、天気予報や気象情報で使われるようになったと言います。
▼そして、最近の新しい用語「酷暑日(最高気温40度以上)」は、2022年(令和4年)の8月に日本気象協会が独自に命名し発表したということです。
まだ、気象庁の公式用語にはなっていないようです。やがて、「真夏日」や「猛暑日」のように日常語になるのでしょうか。
▼言葉は生き物です。時代や文化、社会の変化とともにつねに生まれ変わり続けています。
夏日、真夏日、猛暑日、そして、酷暑日、そして、・・・。
奇しくも、地球温暖化の進行とその速さを証左するように、暑い夏の呼称が新用語として次々に変遷し定着してきているのです。
さて、酷暑日の次は??? 外に出た途端に思わず「暑ッ、凄ッ、辛ッ」と大声を出していそうです。
2025年7月1日火曜日
「・・・と思っていて」という言い方
7月です。西日本の各地では先月27日に早くも梅雨明けが宣言されました。異例な早さの梅雨明けだそうです。
わが北陸地方の梅雨明けはどうなるのか、そして、梅雨明け後の暑さがどうなのか、大いに気になるところです。
▼気になると言えば、最近テレビのコメンテーターなどがよく使う「・・・と思っていて」という言い方がとても気になっています。
話し方教室で「短いセンテンスで、話はそのつど言い切りましょう!」と指導している手前、
「・・・と思っていて」という連用形の言い方を終止形の文意として使う人が最近富に増えているようで気になっていました。
そしたら、歌人の俵万智さんも、近著の「生きる言葉」の中で同様の感慨を書いていました。
▼曰く「最近、私が気になる不思議な言い回しは、話の途中で「・・・と思っていて」というもの。
どうなるのかと聞いていると、特にどうというわけでもなく、ただ思っているということのようだ。
それを「・・・と思っています」と言い切らずに、言いさしの表現のまま、次の話に進んでいく。
おばさんとしては、とても気持が悪いのだが・・・」と。
▼本来「・・・と思っていて」には、その状態が今も続いている、あるいはその考えを持ちながら何かをしている、というニュアンスがあります。
例えば、「私はこの案がいいと思っていて、みんなにも提案したいです」のように、
単なる意見表明にとどまらず、その考えをもとに行動しようという場合に使う言い方なのです。
▼そもそも「・・・と思っています」は、自分の考えや意見をやや控えめに伝える表現です。
近年は、断定を避けて柔らかく伝える表現が好まれる傾向がとりわけ強まっているように思います。
その典型として「・・・と思っていて」が、相手に押しつけず自分の考えを控えめに共有する言い方として重宝に使われているのかもしれません。
▼とは言え、「・・・と思っていて」があまりに多用されると、話が冗長になったり、曖昧な印象を与える話し方になったりしかねません。
意見をしっかり伝えたい場合は、時に意識して「・・・と思っています」と話したいものと考えるのですが・・・。
2025年6月1日日曜日
四字熟語を使う
6月です。大相撲の大の里が横綱に昇進しました。昇進伝達式の口上でどんな四字熟語を使うのか関心の的でした。
口上は「横綱の地位を汚さぬよう稽古に精進し、”唯一無二”の横綱を目指します」というものでした。
注目の四字熟語は”唯一無二”でした。他に比べようがない孤高の横綱を目指すという強い決意と覚悟が込められた言葉だと思います。
▼この”唯一無二”という言葉は、大の里が大関昇進時にも使ったものです。
当初は違う言葉を考えていたものの”唯一無二”以上の言葉が見つからず、最終的に前日になってこの言葉を選んだと明かしています。
この”唯一無二”は父親が好きな言葉だそうですから、家族への感謝と誓いの思いも込められているのでしょう。
▼大相撲の昇進伝達式で四字熟語を使った口上が注目されるようになったのは貴乃花がきっかけだと思われます。
平成5年(1993年)初場所後に貴ノ花(のちの貴乃花)が史上最年少で大関昇進を果たした際に
「今後も”不撓不屈”の精神で相撲道に精進いたします」と口上を述べて世間の耳目を集めました。
▼それ以前にも力士によっては”一生懸命”など四字熟語的な言葉を使う例はあったようですが、
明確に「四字熟語を選んで意識的使う」という口上が定着したのは、貴乃花やその兄である若乃花が昇進伝達式で
"不惜身命””一意専心”堅忍不抜”という四字熟語を使って話題となり、次第に他の力士にも広まり一般化したと言えます。
▼ところで、スピーチにも時に四字熟語を使うと効果的です。
内容にふさわしい四字熟語を使って話すことで話の主題が明確になり、聞き手に強く印象づけることができます。
また、四字熟語をきっかけにエピソードや具体例を話すと、スピーチに深みや説得力を増すことができます。
とりわけ、スピーチの冒頭や結びに使うと、話全体が引き締まりより印象的になると思います。
▼蛇足ながら、私は、人前での挨拶や講演などの結びに”人生邂逅”という言葉をたびたび使ってきました。
”人生邂逅”は、辞書にはない私の造語です。邂逅とは?人生とは?と、言葉の意味や私なりの人生観を話しながら、
その場の人達との出逢いに感謝し末長い親交を願いつつ”人生邂逅””邂逅感謝”で〆るのが常でした。
2025年5月1日木曜日
方言の周圏論
5月です。先月から始まったNHKの朝ドラ「あんぱん」を見ていて思うことがあります。
登場する人たちの土佐弁が私たちの富山弁によく似ているということです。
語尾の響きや使い方にそっくりな表現がたくさんあります。
▼朝ドラ「あんぱん」は、”アンパンマン”を生み出した漫画家やなせたかしと妻の暢をモデルにした物語です。
ドラマ中、助詞の「が」がつく会話が頻繁に出てきます。昨日の放送でも「うちはいいがですけど」「それが解けんがか」「丸暗記してしまうがよ」
「どんな味がするがやろ」「この家と結婚したがか」「そうなが?」「もう決めたがよ」「大切な人がおるがやない?」という具合でした。
確かに、土佐弁と富山弁には類似性がありそうです。
▼一昨年放送された朝ドラ「らんまん」を見ていた時にも同じことを思いました。
「らんまん」は、高知県出身の植物学者・牧野富太郎の人生をモデルにした感動の物語でした。
この時も劇中に交わされた会話は、「が」の使い方が富山弁とよく似た土佐弁でした。
土佐弁と富山弁がどうして似ているのか?かねがね疑問でした。
▼腑に落ちる考え方に行きあたりました。方言の周圏論です。民俗学者・柳田国男が提唱した言語学の理論です。
言葉の変化は、文化の中心地(京都)から同心円状に広まって行くという考え方です。
東北弁と出雲弁の類似性も方言の周圏論の典型だと言います。確かに、どちらも「ズーズー弁」と呼ばれることがあり、とても似ています。
そう言えば、島根県出身の竹下元総理の話し方に東北訛りを感じたものでした。納得です。
▼ところで、松本清張の小説「砂の器」では、東北弁と出雲弁の類似性が重要なトリックに使われています。
物語の冒頭、東京で起きた殺人事件の被害者と犯人が「ズーズー弁」で話していたという証言から、警察は東北地方に捜査を広げます。
しかし、東北では手掛かりが得られず、やがてその方言が出雲地方のものであると判明するというストーリーです。
▼方言の周圏論は面白い考え方だと思います。納得の理論です。
富山弁と土佐弁は、ともに西日本方言の系統に属し、都(京都)から似たような距離に位置します。
遠く離れた富山と高知の方言の類似性は単なる偶然なのか?歴史的、言語的必然性が何かあるのか?
方言の謎が想像を駆り立てます。そして、朝ドラ「あんぱん」に特別な親近感を抱きつつ今朝も見るのです。
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